◆◆◇◆ ラビリンス ◆◇◆◆ 02 ――― 夢は繰り返す、微かな違いを伴って,


 周りの人が酷く無機質めいて見えた。
 冷たくて、硬いが、実は脆い昆虫のように思えた。
 ヨルンはワインを残した。
 一口も飲もうとはしなかった。芳しい匂いが、そこに隠れた何かの別の匂いが、嫌だったのだ。
 通りすがりの酷く四角い男が、
「おや? それを残すのか? ああ、勿体無い。それは恵みの雫じゃないか」
 とだけ言った。からくり人形のようだった。
 今にも上から吊ってあるだろう糸が見えてきそうだ、とまで思った。
 それほど、不自然だった。
「よかったら、あげますけど?」
「いや、いい。いらない」
 男は酷くきっぱりと断った。
「貰えないんだ。ひとりの量は決まっている」
「量は、決まっていたんですか?」
「ああ、知らなかったのか? それでなきゃ、この世は争いの嵐さ。大人も子供も同じだけ」
 男はそう言って、自慢げでもなく、さして面倒臭そうでもなく、義務、のように話し出した。
「生まれてから死ぬまで。毎日毎日、同じ量だけ飲めるんだ。誰かがずるをしないように、保存庫は厳重に見張られている。
 もし、それを与えられたよりも多く飲んだら、そいつはもう駄目だ。殺される。
 ここじゃ、それは禁忌なんだ。量は絶対の掟。王から定められているんだ。誰も破れない。
 逆に飲まなくても罰を受ける。それだけ貴重なものなんだが、保存はそうは利かないんだ。だからというのもあるし、飲まない奴がでれば、余る。あわよくば、それを飲もうと思う奴も出てくる。
 そういうのを防ぐ役目も兼ねて、恵みの雫は多くも少なくも許されない。
 与えられた量だけ飲む。残すことも許されない。
 それは争いを防ぐ役目を持っているのだから・・・」
 ふっと息を吐くと男はグラスを見て言った。
「一口も飲んでないのか?」
「ええ・・・。実は、そうなんです・・・」
 ヨルンは居心地悪げに眼を逸らした。
「でも、どうして飲まないんだ? これは美味いぞ?」
「はぁ・・・」
 とヨルンは曖昧に、口の中でもごもごと言い分けのように言葉を濁した。
「何故か、飲みたくないんです・・・」
 男はどこか呆れたような顔になった。ヨルンは男の気を逸らそうと適当なことを訊いた。
「あの・・・それで、これは、どんな味でしたっけ?」
「何だ、それもわすれたのか? そうだな・・・冬に一足先に春を味わうような、そんな味かな?」
「へぇ・・・」
 ヨルンはどんな言葉を聞いても、ワインを飲む気にはならないだろうと思っていたが、男の言葉は興味深かった。
 感嘆の言葉が口をつくと、男も笑顔になって、さらに言葉を重ねた。
「もしくは、長い冬を越すための、蜜の味だ」
「・・・これ、蜜の味がするんですか?」
 あの、甘い甘い黄金色の寒露。それが、この如何にも薄っぺらい色をしたワインから味わえるとは、言われても信じられなかった。思わず訊き返していた。
「そうだ。本物の、極上の蜜の味がするんだ」
「・・・おいしそうですね」
「ああ。美味いよ、本当に。毎日あれが飲めるのか、冬の唯一の楽しみなくらいだ」
「へえ。そうなんですか」
「だから、君も一口飲めばいい。ほんの一口でいい。美味いぞ、あれは。何よりも。他のものが霞むくらいにだ」
 そこまで言われれば、ヨルンの好奇心も疼かないわけではない。
 しかし、さっき感じた、あの恐ろしいまでの気味の悪さ。
 例えようもないほどの、嫌悪感。
 ヨルンは両手にグラスを持って、匂いを嗅ぐ仕草をした。
「はは。そんなに構えなくても、飲んだら美味いんだって言ったじゃないか」
「それは、わかったんですけど・・・」
 男がヨルンの肩にぽん、と手を乗せて、
「飲めよ」
 笑顔のまま、無機質な声で囁いて去っていった。
 その口調は恐ろしいことに、寒空から響いてくるような、乾き割れたものだった。
 ぞくり、と寒気に襲われ、肩を竦めた一瞬の間に、男は消えていた。
 肩の部分に、男の手の名残のような皺があることだけが、唯一の証拠のようで、ヨルンは恐る恐るそこを触った。
 そこには温もりのひとつも残っていなかった。
 ただ、触れられた時に感じた硬い手の感触が、ひと時蘇った・・・。

 

 

 

 

「これはワインじゃないっ!!」
 その瞬間、全ての魔法が解けた気がした。
 手には、鈍く濁った薄緑色の液体があった。

 ざわ・・・。

 ざわめきが起こり、辺りの空気を軽く掻き回した。ひとりの給仕が、どこからともなくやって来た。
「どうなさいました? 恵みの雫が・・・ワインが何か?」
 魔法は再び掛かってしまった。
「これは・・・」
「はい?」
「これは・・・何か・・・の、液・・・? 誰かの、匂い・・・?」
 その言葉を口にした瞬間、全てが一瞬わかって弾けた。

「これは、キズの水だっ!!」
「は?」
「キズの、誰かの体内液だ!! キズから取ったものだっ!!」
「これは若返りのワインですよ。長寿の水です。・・・恵みの雫なのです」
「嘘をつくなっ!!」
 相変わらずに笑みを絶やさないその態度に腹が立った。
「人の友達を傷つけたなっ!?」
 爆発するようにそう叫んでいた。
「どうして? どうして、そうなるんですか?」
 困惑したような気配だけ纏って、給仕は笑顔のままで尋ねた。心底不思議そうに。しかし、嘘の見え隠れする瞳で。
 知っているのだ!! この給仕はっ!!
 何かを知るより早く、頭が勝手に理解する。直感でわかりかける。
「だって、これ・・・!! 彼女の匂いがする・・・っ!!」
 口に出して言うとそれはより一層怒りを招く。
「彼女の、何ですって? どうして、それがわかるんですか?」
 酷く楽しそうに細まる目を、無理して開いたまま保とうとして瞼が震えているのが、ここから見てもわかる。
「どうして、だって・・・?」
 怒りと不安は互いに競い合うように、巨大化していく。
 それは勘のようなものだった。
 なんの確証もない、ただの思い込み。
 だが、何故かそうに違いないのは、間違いなかった。でも、説明できない・・・。
 途方に暮れてしまった。
 途端、さっきまでの勢いは霧散した。そこに意地悪げな声が潜みこむ。
「確信なんてないんでしょう? 違うかもしれない。
 あなたは何かに囚われているようだ。焦っていらっしゃるのですよ・・・」
 酷く、神経を逆なでするようは口調。堪えきれていない、笑み。
 許せないと思った。いや、思う間もなく叫んでいた。
「ちがう!! 彼女に間違いないっ!!」
「だから、どうして、そうムキになるのです? 図星なんですか?」
「―――!!」
 かっと全身が火照るように怒りが駆け巡った。
 ひどく、熱かったのを覚えている。
 体が激情に任せ、叫ぼうとするのを、どうにか息を吸い込んで収めた。
「大丈夫ですか? 顔が赤いようですが?」
 言外に、血が昇っていますよ、と嫌味を言う。
 相手はこちらの心境を正確に把握した上で、ねちねちと揚げ足をとるように訊いてくる。
 性質が悪いっ!!
「・・・違うという、確証もないじゃないですか」
 絞り出した声には、どこか自分のものではないような凄みがあった。
「ほう。少しは冷静になりましたか。まあ、そうなんですが」
 給仕は、まるで、あなたが気づくのを待っていたんですよ、とばかりに言う。
「そうでしょう?」
 言い返す。
「・・・まあ、要はどちらとも言えない、ということになりますが・・・」
「そっちだって、どっちかわからないくせに、とやかく言わないで下さい」
「はは、怖い。
 でも、ひとつだけ言って置きますけどね、これはあなたの言う、『キズの水』などでは、ないですよ。
 それだけは確かです」
 信じられる訳がない。
「嘘は止めてください」
「いぃえ。これは本当なんです」
 くすくすと口元に手を当てて、笑いを噛み殺す。
 その微笑んだ顔が、まるで作り物のように、精巧で、歪みひとつない所為で、ヨルンは酷く不快になった。
 その笑顔は止めて欲しい。何がそんなに楽しいのだろうか・・・。
「もう、いいです。僕はこれを飲まない」
 宣言するように言った。事実、宣言したつもりであった。
「それは駄目です」
 途端、相手は笑みを嘘のように、引っ込めて眉根を寄せた。
「それは困ります。このワインは皆飲むことが義務付けられています。拒否権はありません」
「そんなっ・・・!!」
「例外も、ありません」
 給仕が、その微笑みのまま近づいてくる。
 それが酷く恐ろしくて、ヨルンは後ずさった。
「無駄です。ここで、あなたの逃げ場はない」
 給仕の声は、どこまでも無慈悲に響いた。

≪小休憩≫



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